2014年日本音響学会誌 小特集「歌声の科学」の感想
榊原健一”世界の歌唱法 様々な歌唱様式におけるsupranormalな声”(2014 No70 vol.9 )
・声帯振動から歌声を概観した上で多様な歌唱法を紹介する論文としては良い内容だけれど、レビュー論文として見るにはもうちょっと詳しく突っ込んでないと引用する部分もあまりないような。
・表1の周期的変動にヴィブラート関係が押し込められているが、何に由来するヴィブラートなのか、何が原因で周期的変動が起きているのかという点にもとづいてより詳細に区分されるべきと考えられる。ヴィブラートという言葉でなく「周期的変動」という項目にしているから意図的に一緒くたに入れた表にしているのかもしれないが、良くない。
・表1、大きさの特殊性の例としてオペラ歌唱があげられているが、ほんとかいな?民族発声のVPRデータとかがないだけで、大きさについてはオペラ歌唱のみをsupranormalの例としてあげているのが適切かどうかはあやしく思える。
・表1、高さの例として「テノールの高音」というのもだいぶ良くない。高さだけならそんなに高くないし、高音の発声が胸声であるとかそういう他の条件も加味して初めて特殊なものという点がないと例として不適切。高いというなら男声で一番高いのはホーミーの倍音のメロディー部ではないか?
・p.502「連続的に地声-裏声変換を行う歌唱技術は,オペラ歌手のテノール」というのは表現としてたぶん好ましくない。sotto voce からのクレッシェンドはvoce di testaではあるがfalsettoではない、はず、なので生理学的なデータにもとづいてある歌唱の声帯振動様式が裏声モードから地声モードに切り替わったという場合でない限り、オペラ歌手の高域の発声にミックスボイス的な言及をするのは間違ってる。感覚だが、たぶんappoggiareされている声の振動様式が地声モードなのではないかしら?
「旅の歌」
女声ばかりが歌っている曲、これを男声が歌わないのはもったいないというのはよくあったが、旅の歌を聴きなおしていてはじめて、男声のものだけれど女声が歌うべきだと感じた。こんなのははじめてだ。
女声ばかりでもったいない曲はマスカーニの歌曲全般、そういえばイタリア古典のse tu m'ami、なんかで思ったし、オペラアリアを横で聞いていると思うことしばしばであるが、しかし旅の歌はこれは女声だと、ジャネット・ベイカーの録音を聴いたからではあるが、しかしこれはベイカーでなくとも女声であればこそ出せる色がという曲だと。そして逆に考えて、男声でも曲のポテンシャルが発揮しきっているのが聴いたことないとかいう方向から思い出すと、ウェンロックエッジなんかもあれは思い出すところだが、そういえばそれもヴォーン・ウィリアムズなわけで、つまりヴォーン・ウィリアムズの曲がそんな感じなのだろうか。その視点は心の隅にこれからはあっても。
歌手自身の声のうるささについても考えただけになってたなー
ヘッドホンで録音を聞きながら歌って、ヘッドホンをずらして自分の声を聞こえるようにしてさらに歌って、としたところ、かなりの大音量で再生しているけれど、録音の音量と自身の声の音量が大差ないような感覚。部屋が狭いからというのもあるかもしれない。
しかしそれを思うと、やはり歌手自身の声による騒音障害というのはあってもおかしくないかも。長時間演奏し続けているような環境だと自身の声が騒音となって、と考えると、まず実演の機会を考えるが、ホールだと声が向こうに行くからそうでもないかもしれない。となるとやはりレッスンからリハーサル室での大きい練習のような環境こそで。
そうか、がっつり声が出てる合唱なんかのほうが、耳の真後ろから歌声が発声されているような状況が頻発するかもしれない。オペラの重唱なんかよりは、まずより一般的だろう。となると、合唱団員に聴力検査をしたら、無作為のいろんな人との差が出るか、出るかも、というところからかしら。
いわゆる合唱声をいつかなんとかしよう
5人と10人と30人の合唱の声は、人数が聴き分けられるのか?
おそらく合唱の一声部の人数が多くなるほど中性顔みたいに中庸の声になっていくはずで、合唱の人数の違いの演奏上ではなく音楽上録音上の違いの意味合いみたいなところはおそらく話がされていないはずで、誰かやらないと誰もやらなさそうだけれど書かないと忘れるので備忘録的にここに書く。